日本のバター
日本のバター文化は、奈良時代の「蘇・醍醐」から始まり、約1000年の断絶を経て、明治維新後に北海道酪農とともに復活した。現在は北海道が国内バター生産量の約95%を占め、独自のバター文化を形成している。近年は発酵バターへの関心も高まっている。
日本バター1300年の歴史
蘇(そ)と白牛酪
奈良時代、天武天皇の勅令(675年)で肉食が禁じられたが、乳製品は許可された。牛乳を煮詰めた「蘇(そ)」や、さらに精製した「醍醐(だいご)」が宮廷で珍重された。「白牛酪(はくぎゅうらく)」はバターに近い乳製品で、薬として使われた。仏教の経典「涅槃経」では「醍醐」が最高の悟りの境地を表す言葉として使われた。
乳製品文化の断絶
平安時代以降、仏教の影響と農耕社会の定着により、牛は農耕用として使われ、乳製品文化は衰退した。江戸時代には徳川吉宗が1727年にインド産白牛3頭を輸入し、「白牛酪」の製造を試みたが、広く普及することはなかった。この時期、日本人の乳製品離れが約1000年続いた。
明治維新とバターの再導入
明治維新後、西洋文化の導入とともにバターが再び日本に入ってきた。1869年(明治2年)、北海道開拓使が設立され、欧米の農業技術・酪農技術の導入が始まった。お雇い外国人技師たちが北海道でバターの製造方法を指導した。
日本初の近代的バター工場
北海道開拓使が真駒内に「真駒内牧牛場」を設立し、日本初の近代的なバター製造が始まった。アメリカ人農業技師エドウィン・ダンの指導のもと、欧米式の酪農・バター製造技術が導入された。この年を日本の近代酪農の始まりとする見方が多い。
北海道酪農の発展
大正から昭和初期にかけて、北海道の酪農が急速に発展した。1925年には北海道バター協同組合が設立され、品質管理と流通の整備が進んだ。しかし太平洋戦争中は飼料不足・労働力不足により酪農は大きく後退した。
戦後復興と大量生産時代
戦後の食料不足解消のため、GHQの指導のもと学校給食にパンと牛乳が導入され、バターの需要が急増した。1955年頃から大手乳業メーカー(雪印・明治・森永)が大規模なバター生産を開始。1960年代の高度経済成長とともに、バターは一般家庭に普及した。
バター不足問題と輸入規制
日本のバターは農林水産省による輸入割当制度(関税割当制度)で保護されており、国内生産量の変動が直接的な品不足につながる構造がある。2008年・2014年・2016年などに深刻なバター不足が発生し、スーパーの棚からバターが消える事態が繰り返された。
発酵バター・職人バターブーム
フランスの発酵バターが日本で広く知られるようになり、国内でも発酵バターの製造が始まった。よつ葉乳業・カルピス・明治などが発酵バターを発売。また、北海道の小規模牧場が独自の発酵バターを製造・販売する動きも出てきており、バターの品質・多様性への関心が高まっている。
日本の代表的なバターブランド
北海道がバター王国になった理由
北海道は日本の国土面積の約22%を占めながら、国内バター生産量の約95%を担う。その理由は、広大な牧草地・冷涼な気候・欧米型酪農の早期導入にある。根釧(こんせん)台地・十勝平野・石狩平野は、大規模な草地酪農に適した地形と気候を持つ。
北海道の乳用牛頭数は約85万頭(全国の約60%)。1頭あたりの年間乳量は約9,500kgで、世界トップクラスの生産性を誇る。ただし、日本のバター輸入規制(関税割当制度)により国内生産量の変動が品不足に直結する構造的問題も抱えている。